先見日記

先見日記とは 先見リメ[ス

2006 Sep 29
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「品格」の行方
自宅にて

 大相撲秋場所(両国国技館)が終わり、衣替えの時季となりました。
 この間、スポーツ界では、ラグビー日本代表ジャンピエール・エリサルド・ヘッドコーチ(52)の解任が内定。遅すぎる協会の対応に呆れたファン、メディア関係者が後を絶ちません。母国フランスのクラブ、バイヨンヌのスポーツマネジャーに断りもなく就任し、兼任(!)を希望したというのだから凄い裏技ですね。11月には、スリランカでのワールドカップ・フランス大会アジア地区最終予選が迫っているのですから、釈然としません。
 サッカー関係でも元Jリーガー、現役Jリーガーが相次いで新聞記事になる振る舞いにおよびました。シドニー五輪、対南アフリカ戦で「ゴォルゴォルゴォル……」と10秒以上連呼の日本テレビ、船越雅史アナウンサーもセクハラで厳しい社内処分を受け、亀田パパの周辺にも相変わらず危険な匂いが……。

 そんな中、心に引っかかったのは9月24日付『東京新聞』の新刊評です。松田忠徳著『大相撲 大変』(祥伝社新書)を採り上げたノンフィクション作家の織田淳太郎氏が、朝青龍に対して著者が「やや手厳しい」と評したからです。結語でも氏は思い切ったことを述べています。
<著者は横綱に必要なことを、「強さと心の広さ」としている。が、“強さ”は執着を拠り所にし、“心の広さ”は執着からの解放に依存する。矛盾がそこにあると感じるのは私だけか。角界もこの矛盾に目を向け、「横綱の品格」などという模糊とした大義を手放すべきだと思っている>
 評者は、その前段で、朝青龍の<この闘争的な執着心こそが、彼を大横綱へと押し上げた原動力とも言えるだろう>と書いています。
 ぼくはこの本の著者の前作『朝青龍はなぜ負けないのか』(新潮社・05年)を読んでいたので、あまり新鮮な印象を受けませんでした。刺激を受けたのは、むしろ書評のほうなんです。評者が朝青龍を「大横綱」としているところが論点になりそうです。
 アポなしで鳴戸部屋(宿舎)に出稽古に赴き、五月場所でとことんやられた若の里を相手にしての激しい申し合いなどは、大横綱らしからぬ「(ただの)いじめ」じゃないのかというのが、モンゴル研究家でもある著者・松田氏の懸念です。
 これから「大横綱」になって欲しい著者と既にそうなっていると認識する評者……。そこにこのテーマの序論↓命題↓反対命題が立ち現れています。ですからここから先は、総合↓結論という風にデカルト精神を発揮すべきなのでしょう。

 単なる「英雄」「大選手」以上を求める人とそうでない人がいます。「神話好き」はスポーツに聖人を求めるから転落なんかされては困ります。「思想好き」は、ふやけてはいけないから、アンチロマンの中にロマンを見出そうとします。でも実際は、そのどちらをも放棄しているミーハーこそが大勢なんだと思います。
 じゃああなたはどうなんだと問われた時に、ぼくは「横綱の品格」を手放すべきだとは答えません。闘争的な執着心と心の広さという矛盾の前に立ちすくんでも、「両立が不可能であると同時に不可欠」であるとしてと付き合っていくしかないし、それが自分の立場でもあります。
 「品格」という言葉は確かに模糊としています。ただ、それが「手放すべき大義」という風には思えないんです。横綱が人々の希望や親愛の大いなる受け皿としてあって欲しいと念じた際にそれしか思い浮かばなかったのでしょう。
 角界に限らず、尊大で傲慢なスポーツ関係者が増えています。静かな絶望の中で軽率さの見張り番を続けることが希望創出につながると考えるメディア人は反対に減る一方。せっかくのニューヒーローが、経済暴力渦巻く弱肉強食世界の象徴ではあまりに希望がないと思います。

End

















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