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2017年11月29日技術ブログ

“神業”を科学する。スポーツ脳科学の世界

アスリートたちはいかに“神業”を成し遂げるのか──。 この難問に脳科学で挑むのが「Sports Brain Science Project(スポーツ脳科学プロジェクト)」 プロジェクトマネージャー・柏野牧夫さん。 ウェアラブルセンサーやVRといった最先端の情報通信技術(ICT)を活用し、 スポーツにおける“脳の戦略”に迫ります。

私たちは錯覚の世界を生きている

私たちは本当は何を見て聞いているのか?

NTT コミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員 スポーツ脳科学プロジェクトPM 東京工業大学工学院情報通信系特任教授 博士 柏野牧夫さん

NTT コミュニケーション科学基礎研究所 上席特別研究員 スポーツ脳科学プロジェクトPM 東京工業大学工学院情報通信系特任教授 博士 柏野牧夫さん

───柏野さんが研究している聴覚のイリュージョン「錯聴(さくちょう)」。視覚のイリュージョンである「錯視」は画家のエッシャーの絵や、「ミュラー・リヤー錯視(※1)」などによって多くの人に知られていますが、そもそも錯聴にはどんなものがあるのでしょう?

まずこの音声を聴いてみてください。何と言っているでしょう?

───聴き取るのが難しいですね……。言葉であることは分かりますが、何を意味しているのかは判然としません。

では、続いてこの音声を聴いてみてください。

おそらく言葉が聞き取れたと思います。
ひとつ前の途切れて聞こえる音声は、読み上げられた文章を100~200ミリ秒程度の間隔ごとに音声信号を削除して無音にしたものです。後の音声はその無音部分に雑音を入れたものです。途切れて聞こえていたはずの音声が滑らかに聞こえたと思います。

───本当ですね……。どうしてこんなことが起きるのでしょうか?

これがまさに音のイリュージョン、錯聴なのです。

私たちの脳は、聞く人が意識していなくても、雑音部分の前後から予測をつくりだし、本来聞こえているはずの音を補います。
不思議な体験ですが、決して欠陥ではありません。錯聴は日常生活、さらには私たちが適切に生存するための脳の巧みな戦略なのです。

たとえば日常生活で誰かと話をしている時、周囲は雑音だらけです。道端であれば車の音がしますし、カフェであれば人の話し声やくしゃみの音がします。こうした雑音を適切に処理できなければ、私たちはおおいに生活に困ります。

さきほどの錯聴の途切れた音声のように、車の音やくしゃみが聞こえるたびに聞きたい音声が途切れて聞こえ、相手が何を言っているのか分からなくなります。緊急事態では命の危険にもさらされることでしょう。

雑音の中であっても、特定の聞きたい音声をきちんと認識する脳の戦略。それが音のイリュージョン、錯聴の正体なのです。

続いてこの画像を見てみてください。黒い部分に何が書かれているか判別できるでしょうか?

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───これも難問ですね……。

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これが答えです。単純なアルファベットの文字であっても、多くの部分が「欠けている」黒のイメージではその判別が非常に難しいことがわかります。

私たちの脳は、隠されているイメージのあるべき形状を推測し、補完する働きがあります。赤い円によって、黒いイメージの一部が「欠けている」のではなく「隠されている」という情報が脳に与えられると、すぐに認識できるようになる。これもさきほどの錯聴同様、脳の戦略です。街並みや自然の風景を見てみると、お互いに重なり、隠し合っていますよね? それらを適切に認識できるのは脳の情報処理のおかげなのです。

このように、私たち人間は決して“生”の光や音の信号にアクセスしているわけではありません。それらは私たちの感覚器を最初に刺激しますが、私たちが見たり聞いたりしていると感じていることはすべて、脳の情報処理が終わった後の情報です。目や耳に入ってきた物理情報と、私たちが認識している情報はずれている。その“ずれ”のことを錯覚と呼ぶわけです。

視覚は空間認識に優れ、聴覚は時間認識に優れている

───視覚にも聴覚にも錯覚があるということは、それらは脳内の同じ場所で情報処理されているのですか?

いいえ、基本的にはそれぞれに特化した経路で行われています。経路は異なりますが、動作原理としては共通のものがあります。その中で大きな役割を果たすのが「学習」です。人間は生きながら、この世界で「起こりやすいこと」と「起こりにくいこと」を学習します。たとえばそれまでに体験したことのない事象と出くわした時、人間はこれまで学習したことをつかって予測をつくりだし、「起こりやすいこと」を採用して認識します。その点が視覚でも聴覚でも共通しているということです。

こんな動画を見てみてください。

───目を開けて見ていると、映像の中の人物は「ば」を発声しているように聞こえますが、目を閉じて映像を見ないようにすると「が」に聞こえますね。

音声はずっと同じ「ば」で、映像だけを差し替えている錯聴です。

「読唇術(※2)」を習ったことがなくても「ば」を発声する時は口を一旦閉じ、「が」を話す時は口は閉じないものだということを脳は学習して知っているのです。そんな脳が「起こりやすいこと」を選択して認識した結果、視覚情報によって聴覚情報が歪められるという錯覚です。
続いてこの2つの映像を見てください。

───後の方の映像では、点滅が2回ですね。

実は両方とも、点滅の回数は1回なのです。

脳は視覚と聴覚の情報を処理し「起こりやすいこと」を選択するのですが、その結果、聴覚情報によって視覚情報が歪められる場合がある。その特性を活かしたのが、この錯覚です。

視覚というものは、聴覚よりも遥かに空間を捉えるのが得意なのですが、時間を捉えるのが苦手なのです。つまり「時間的精度」が低い視覚は、この映像において、光の存在は捉えられても、非常に短い時間間隔での点滅を正確に捉えることができないのです。

その一方で、聴覚は音源の位置などの空間情報を捉えることが不得意ですが、時間を捉えるのは得意です。時間的精度では、聴覚は視覚よりもざっと10倍は高い。それゆえ、この映像で流れるような短い音の切れ目を正確にとらえることができる。

時間的精度が重視されるこの映像において、脳が時間的精度で信頼のおける聴覚情報を重視した結果、視覚情報がゆがめられ、同じ光でも、2回点滅したように見えてしまうのです。このように視覚、聴覚には得意不得意があり、脳の情報処理は得意な方を尊重するようにできているのです。

変化球は脳がつくるイリュージョン

さて、ではイリュージョンがスポーツの野球のどんな部分に見いだせるのか、見ていきましょう。
この動画を見てみてください。まずはボールを目で上から下へと追いかけてみてください。まっすぐに落ちていますよね?

※全画面表示にすると、錯視効果をより明確に体感できます

───ボールは回転しているように見えますが、まっすぐ下に落ちています。

ではこのボールを視野の片隅で捉えるようにして見てみてください。脇目で見るようなイメージです。

───上から下へと追いかけている時に比べると、ずれて落ちていくように見えますね!

そうです。動画自体は終始同じ内容です。もうお分かりですよね。実は「消える魔球」と呼ばれるような変化球も、その多くが視覚のイリュージョンによって、実際以上に変化しているように見えるのです。まさにこれまでお話してきた「人間が見たり聞いたりしたと感じていることは、物理的に目や耳に入ってきている情報とは異なる」ということが、野球でも起きているわけです。つまり、バッターが見ているボールの軌道は物理的な軌道とずれている可能性があるということです。

たとえば、豪速球について考えてみましょう。豪速球というわけですから、当然、球速が速いボールがその本質であり、バッターにとって打ちにくいと思いますよね? しかし物理的に球速が速いだけでは、豪速球と感じられるとは限りません。逆に、「球速が遅いのに速く感じられる」という豪速球もあるのです。

たとえば元プロ野球選手の山本昌選手(※3)の投げるボールを、複数のプロ野球選手が口を揃えて「昌さんが一番速い」と評します。しかし実際に山本昌選手の球速を数値だけで見てみると、ほとんどが130 km/h台です。この球速は、他の選手と比較して、決して速いわけではありません。

その他にも、プロ野球選手と「誰の投げる球を速く感じるか」という話をするたび、名前があがるのは、物理的には球速が遅い部類の投手が結構います。さらには150 km/h台の、いわゆる豪速球に相応しい球速のボールを投げているはずなのに、「全く速いと感じない」と評価される投手もいます。豪速球というものは、球速や回転数などの計測値だけでは捉えられない、イリュージョンが選手の能力に大きな影響を及ぼしているのです。

───どうしてそんなことが起きるのでしょう?

網膜の特性と眼球運動です。「カーブボールイリュージョン」で、見方を変えただけでボールの動きが違って見えたように、網膜のどの場所で、どのように見るかによって、ものの見え方はまるっきり変わってくるわけです。
網膜の視野は、中心はものを細かく見ることに長けていて、周辺視野はもの動きを捉えることに長けている。この特徴を活かして普段の私たちは物事を適切に知覚していますが、同時に変化球はその特徴を、まるで手品のように巧妙に転用して生み出されていると考えられます。

たとえば野球において、ボールが行くであろうところを予測し、目をやった時、予測が当たればボールを捉えることができる。しかし予測が外れると、目を向けたはずの場所にボールが無い、消えたように見えるわけです。
魔球と呼ばれるような変化球も、こうした人間の特性を意図的に引き起こし、バッターを騙すようなものだと考えられます。
ちなみに、私たちの目がはっきり見えているのは視野全体の何パーセントくらいだと思いますか?

───80パーセントくらい……でしょうか?

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私たちはこの世界を大パノラマで見ている気でいますが、実は精細に見えているのは視野の1~2パーセント程度と言われています。私たちはこの、たかだか1~2パーセントの視野をつかって、あちこち見回し、しかも見回している間は「世界は変わっていないはず」という前提のもとでそれらを脳内で繋げて処理し、大パノラマで“全体が精細に見えている気がしている”わけです。言ってみればこれもイリュージョンです。

このイリュージョンをうまく応用したものが手品です。人間が「世界は変わっていないはず」と思い込んでいる98パーセントのはっきり見えていない視野で、手品師はいろんな作業をしてみなさんを術中に陥れているわけですね。

リアリティとは、感覚間の一貫性で決まる

───私たちは現実感、つまりリアリティをどのように生み出しているのでしょう?

私たちの持つリアリティとは、複数感覚の一貫性によってもたらされるものです。たとえば私たちにとっての「上」と「下」も、感覚的な一貫性があるからそう感じているわけです。

私たちは重力に対する傾きを平衡感覚でとらえ、上にあるべきものと下にあるべきものを視覚でとらえ、床や天井の触覚をとらえ、それらを脳内で複雑な情報処理によって統合し、一貫したリアリティを構築することで、この地球上で生きているのです。

――複数感覚の一貫性をうまくつくることができれば、今と違う現実を生きることも可能ということですか?

そうです。それが「VR(バーチャルリアリティ)」の可能性です。たとえば逆さ眼鏡で生活していると、最初は酔ったりして大変な困難を覚えますが、次第に慣れ、ついには自転車も乗れるようになります。

VRでも同様で、自分の足が今の2倍の長さに感じられるようなVRの中で生きていると、脳はいつしかその足を自分の本物の身体だと認識するようになり、VRの中で違和感なく暮らせるようになります。

運動感覚と視覚情報を一致させるなど、複数の感覚の一貫性を適切につくっていくことができれば、私たちは“この身体”に代わる、新しい身体を見つけることができるのかもしれない。少なくとも、人間の脳は、この身体以上に身体性を拡張できるようにできているのですから。

※1ミュラー・リヤー錯視

100年以上前に報告された、錯視の代名詞的存在。同じ長さの線分2本のそれぞれ両端に、形状の異なる矢羽を書き足すと、同じ長さのはずの、もとの2本の線分の長さが異なって見えるという錯視。 http://www.kecl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/mullerLyer/ja/index.html

※2読唇術

話し手の口の動きから、発している言葉を理解すること。聾学校などで実際に教育されているほか、研究の世界では「読話」とも呼ばれる。

※3山本昌さん

現役32年間を中日ドラゴンズ一筋で活躍。2006年に史上最年長41歳でのノーヒットノーラン達成。2008年には通算200勝を歴代最年長の42歳で達成。2015年に史上初の50歳での登板を最後に現役を引退。

未来の野球をつくる「スポーツ脳科学」最前線

プロスポーツを、高度な脳の情報処理から見るということ

───柏野先生がNTTで行っている「スポーツ脳科学(Sports Brain Science:SBS)プロジェクト」について教えてください。そもそもスポーツを脳科学から研究するとはどういうことなのでしょう?

元プロ野球選手の桑田真澄さんとお話した時、とても面白いことを聞いたんです。私が「投球時のボールのリリースはどのようにコントロールしているのでしょうか? リリースのタイミングや位置を細かくコントロールしているのですか?」という質問をした時のことです。桑田さんは「僕の手と、キャッチャーのミットの間には、僕だけに見える“レール”があるんです。僕がやることはそのレールにボールを乗せること。ただそれだけなんです」とお話されていました。

面白いですよね。どうして彼の目だけに見えるレールがあるんでしょう? 実は彼が見ているレールこそ、骨や筋肉をどれだけ調べても分からない、「上手い人」だけにできる脳の情報処理のカラクリがあるのです。そして、それには前編でお話してきた脳の戦略、イリュージョンが深く関わっています。

ところで身体を動かす時に、何を考えて動かしていますか? たとえば目の前のスマートフォンを手に取る時のことを考えてみてください。

───とくに何も考えないですね……。スマートフォンまでの距離をだいたい考えて、手を伸ばします。そもそも日常ではそれほど離れた場所にスマートフォンはありませんけれど。

そうです、考えていないわけです。動作の細かい手続きを意識することなく、私たちは行動している。人間には約200の骨と約500の筋肉がありますが、それらの膨大な組み合わせをいつ、どのように使って動くかを逐一意識できるように人間はできていません。組み合わせが膨大すぎて、手に負えず、それこそスマートフォンを手に取るどころではなくなります。私たちはそれらをすっとばして、身体を動かすコツを体得して生活しているわけです。

プロの野球選手が優秀な成績を出すコツとは何か、それは脳内でどのようにつくられるのか、そしてどのように教えることができるのかを研究するのが、スポーツ脳科学プロジェクトです。後編ではスポーツ脳の巧みな戦略の一端をご紹介していきたいと思います。

ボールの速度計測や軌道分析、投手が投球フォームを確認できる機能などを備えた「スマートブルペン」

ボールの速度計や回転数の計測、投手や打者のフォームの撮影、身体各部の動き・視線・生体信号の計測などの機能を備えた「スマートブルペン」

スクリーンには、スタジアム内を異なる角度から撮影した映像を同時に映し出すことができる

バッターボックス横のスクリーンには、ブルペン内を異なる角度から撮影した映像を同時に映し出すことができる

ピッチャーの戦略「バッターの目を操れる人が勝ち」

───それでは野球を脳の情報処理として見ていくとはどういうことかを、ピッチャーとバッターの情報戦からお聞きしていきたいと思います。ピッチャーはどのような戦略で戦っているのでしょうか?

ピッチャーには、バッターに球種や球速、コースの情報をできるだけ予測させないように動く戦略が求められます。
バッターは、飛んでくるボールがどんな球種かが分かっている場合と分かっていない場合では、成績が全く異なります。成績が良いのはもちろん前者です。球種が読みやすいピッチャーは「打たれやすい」わけです。

バッティング時のバッターの動きを時間で追ってみましょう。プロの選手に参加していただいた実験によると、バッターは、ボールがピッチャーの手から離れて約0.1秒、3~4メートル進んだあたりまでの情報をつかって手元に到達するタイミングを予測し、振るか振らないかを決め、実行していると推測されます。

よって、バッターにこの約0.1秒までの情報を極力与えないピッチャーが優秀なのです。

大リーガーのダルビッシュ有選手の、5つの球種の投球フォームを見比べると、異なる球種を投げているにも関わらず、フォームやリリース直後のボールの軌道には、ほとんど変化が見られません。これではボールリリースから0.1秒の間で球種を予測することが非常に困難です。

───予測が困難な場合、バッターはどういった動きになるのでしょうか?

投手の傾向を“読み”ますが、それが不十分な場合は手がかり無しでバットを振るしかなく、さらに「2ストライク」などでカウントが追い込まれた状況であれば、「ダメもと」で振りに行くしかありません。大リーグの選手が、ワンバウンドするような「ボール球」にフルスイングして空振りしているような状態がそうです。客観的に見れば「なんであんな球を振るんだ」と呆れてしまいますが、本人からするとどうしようもないわけです。

バッターの戦略「自分の目を適切に使うことのできるバッターが勝つ」

───続いてバッターの戦略についてお聞きしたいと思います。

はい。よく打てるバッターというのは、打つ時にどんなふうにものを見ていると思いますか?

───ボールをよく見ているんじゃないでしょうか? ボールをよく見て、素早いスイングでボールにバットを的確に当てられるバッターが優秀なのだと思います。

少年野球などでも、コーチに「ボールをよく見ろ!」と教えられるものです。しかし実験をしてみると、それがいいとも限らないこともあるんです。まだまだデータの数が足りていないため、今からお話することはこれから継続的な研究が必要なことですが、私たちはバッターの「注意範囲」と成績の関係性を調べる実験を行いました。

実験では、トップレベルのソフトボール選手などに参加いただいて、人間の視線を追跡するウェアラブルセンサー(※1)「アイトラッカー」をかけて打席に立っていただき、ピッチャーが投げるボールを見てもらいました。もう一つ、モニターの前に座っていただき、注意範囲を調べる実験も行っています。その結果を合わせて見てみると、ボールの動きを追跡するバッター(注意範囲が狭く、集中している)よりも、ボールの動きを追跡しないバッター(注意範囲が広く、広範囲を捉えている)の方が、球種判定が正確であることが分かってきています。

───ボールの動きを追跡しないバッターは何を見ているんでしょう?

ピッチャーの「リリースポイント」、つまり、ボールがピッチャーの手から離れるポイントに視点を定めて、身体の動きも含めた周囲の情報から球種を判断しているわけです。

注意範囲が広いことが優秀なパフォーマンスに結びつくことは、さまざまなアスリートによって指摘されていることでもあります。たとえば元プロ野球選手の鈴木尚広さん(※2)は「盗塁のスタートを切る時、投手の癖は見ず、情景全体を一枚の絵のように見る」、プロボクサーの井上尚弥さん(※3)「相手の目のあたりに目を向けてボーッと見る」と自らの注意範囲について述べています。
ボールの動きを追跡せず、広範囲を捉えるほうが、バッターにとっては適切な目の使い方と言えるのかもしれません。

───ではスイングはどうなのでしょう?

バッターは、ボールがピッチャーから離れて約0.1秒、ボールがピッチャーの手から3~4m進んだあたりの情報をつかって球種を予測しているとお話しました。
球種判別ができている人かどうかは、スイングに如実に現れます。

球種が判別できている、いいバッターには特徴的な「待ち」が見られます。

実際にソフトボール日本代表の山田恵里選手(※4)で実験させていただきました。下のグラフは、山田選手と日本リーグ所属の若手選手が、速い球(ストレート)と遅い球(チェンジアップ(※5))を、球種を知らされずに打った時の身体部位の速度をそれぞれ比較したものです。

縦軸が身体部位の速度、横軸がボールリリースからの時間を示し、グラフ線中の最初の白丸がスイングの開始を示し、四角はボールを打った時点を示す(四角がない場合は空振り)

縦軸が身体部位の速度、横軸がボールリリースからの時間を示し、グラフ線中の最初の白丸がスイングの開始を示し、四角はボールを打った時点を示す(四角がない場合は空振り)

まず、速い球(青線)を打つ時を見てみると、若干の違いはありますが、山田選手も若手選手も、ピッチャーのボールリリースから約0.3秒でスイングを開始、両者ともヒットを打ちました。
しかし遅い球(赤線)を見てみると、山田選手は約0.45秒からスイングを開始してヒット、一方の若手は約0.4秒でスイングを開始して空振りしています。

両者のグラフを重ねて見てみると、山田選手は速い球と遅い球で、明確にスイング開始の時間がずれています。さらに、遅い球のときは、開始から一度スイングをゆるめ、球種に合わせてスイング速度のピークを調整していることがわかります。つまり、遅い球をきちんと見て判別し、球に当てるタイミングを調節していることが分かります。

このように、トップレベルのピッチャーとバッターは、0.1秒の間に脳の情報処理戦を繰り広げているのです。ピッチャーが0.1秒間で多くの情報を出し、見抜かれてしまえばバッターの勝ち。情報を出さず、バッターに見抜かれなければピッチャーの勝ちということです。

スポーツを科学する視点が生む、未来のトレーニング法

───こうしたスポーツを科学する知見は、今後のスポーツのあり方をどのように変えていくのでしょう?

私たちの目標は、スポーツ脳科学の知見に基づいたトレーニング方法を生み出し、トップレベルの野球やソフトボールの選手を科学的に強くすることです。その際に重要になってくるのが、選手へのフィードバック方法の確立です。

従来のトレーニングにおけるフィードバック方法は、非常に感覚的です。コーチに「そうじゃなくて“こう”だ」と言って身振り手振りで教えられるわけです。この方法では、なかなかうまく伝わりません。

そこで今、選手へのフィードバックに視覚VRの活用を研究しています。視覚VRをトレーニングに活用することで、従来はできなかった、より高度なフィードバックが可能になります。たとえば先ほどお話したような適切な目の使い方を、言葉ではなく、VRの中のもうひとつの現実を通して学ぶことができます。また、バッターはピッチャーと0.1秒間の脳の情報処理戦を行っていますが、視覚VRを用いたバッティングでは、投球フォームやボールに関する情報を操作する方法などで、トレーニングに活用することが可能です。

VRを用いたトレーニング映像。実際のバットを持ち、スイングすると、VR内の自分の、もうひとつの身体がボールを打つ

VRを用いたトレーニング映像。実際のバットを持ち、スイングすると、VR内の自分の、もうひとつの身体がボールを打つ

現在私たちは、視覚VRを活用したトレーニング方法の確立と実用化を目ざし、研究開発を進めています。ゆくゆくは、視覚以外の感覚へもフィードバックを拡張しながら、トップレベルの野球やソフトボールの選手のパフォーマンスを科学的に向上させることを視野に入れています。

※1ウェアラブルセンサー

装着型センサー。人間が身につけることのできる心拍数や筋活動、身体各部の加速度などを計測する各種センサーのこと。身体の動きや生理的状態などを測定することに用いられる。

※2鈴木尚広さん

元読売ジャイアンツの元プロ野球選手であり、スポーツコメンテーター。盗塁の名手として知られ、盗塁成功率は「.829」を記録。NPB歴代最高記録である。

※3井上尚弥さん

現役のプロボクサー。現WBOスーパーフライ級王者。世界最速で2階級制覇を達成している。

※4山田恵里選手

日立ソフトボール部「日立サンディーバ」所属。「女イチロー」の異名を持つ強打者で、2008年の北京五輪では全日本の主将としてチームを牽引、金メダルの獲得に貢献した。

※5チェンジアップ

野球やソフトボールにおいて、速球と同じ投球フォームで投げられる、緩い変化球。打者のバッティングのタイミングを意図的に狂わせるために投げられる変化球の一種。

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