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2023年オリジナルカレンダー
「サステナブルな社会へ」歴史を証言する書、人間のあり方を説く書、健康と医療を広く庶民にも理解できるよう伝える書など、当時から現代に至るまでの多くの人々が、それらの書を学び、触発されてきました。こうした役割を果たしてきたバチカン図書館所蔵の歴史的図書を紹介します。
当時の人々から後世の人々へ次々と「知」のバトンが受け渡され、さらに現代から未来へ「知」をつなぎ続けることが、新たな価値創造とサステナブルな社会の実現にとって重要であることを表現します。
1月
ホメロス『イリアス』
15世紀 Urb.gr.136
古代ギリシアの詩人ホメロスは、世界文学の最高峰とされる二大叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の作者といわれています。ただし、その生涯については確かなことがわかっていません。いつ頃の人物かについては、紀元前10世紀頃から紀元前5世紀頃までと幅があり、紀元前8世紀頃という説が有力とされています。出生地は10箇所ほどの説があるうち、スミュルナ(現在のトルコのイズミル)が有力な候補の一つです。このように背景が不明な作者であるにもかかわらず、現代に至るまで古代ギリシア最大の叙事詩人として仰がれています。
『イリアス』は、紀元前8世紀中頃、ギリシア最古の作とされる、1万5693行からなる長編叙事詩です。『イリアス』はトロイアのラテン語名に由来し、10年にわたるトロイア戦争終盤の約50日間の出来事を題材にしています。トロイア戦争は、トロイア王国とギリシア各都市の連合軍が戦ったという伝説の戦争です。『イリアス』は、ギリシア軍第一の戦士アキレウスの怒りを主軸に、英雄たちが名誉を懸けて戦う様を躍動感に満ちた詩句で美しく描いています。それにより後世までギリシア人の精神を支え、受け継がれ、さらには叙事詩の模範として世界の人々に大きな影響を与えました。
2月
ロンバルドゥス『命題集』
14世紀 Vat.lat.681
ペトルス・ロンバルドゥス(1095頃−1160)は、イタリアのロンバルディア出身の神学者です。パリのノートルダム司教座聖堂付属学校で約20年にわたり神学を教え、ノートルダム参事会員などを経て、パリ司教に任命されました。有力な縁故のない外国人でありながらこうした高い地位の職に就けたことは、ロンバルドゥスの学識に対する高い評価と、神学教授として名声を得ていたことを示しているといえるでしょう。また、ローマに滞在した際にギリシア教父神学を体系化した『正統信仰論』に接し、重要な示唆を得ました。著作は、聖書註解、説教、および体系的著作の『命題集』の3つに大別されます。
『命題集』は、神学上の問題を総括的に扱った、全4巻の著作です。第1巻は三位一体論・神論、第2巻は創造論・原罪論、第3巻は受肉論・救済論・徳論、第4巻は秘跡論・終末論で、各主題について聖書、伝統的な教父の著作、同時代人の解釈を紹介しながら論じています。この書はパリ大学神学部の教科書となり、同書を註解することが神学の学位取得の準備として要求されるようになり、13世紀の「大学」における神学教育および神学研究の基礎を築きました。また、後の神学者たちが註解に力を注ぐなど、知的遺産として継承されました。
3月
エウセビオス『教会史』
15世紀 Vat.lat.241
エウセビオス(260頃−339頃)は、「教会史の父」と呼ばれるキリスト教最初の教会史家です。パレスチナに生まれたとされ、315年頃にパレスチナのカエサレアの司教となりました。325年にはニカイア公会議にオリゲネス派(中間派)の代表として列席、「ニカイア信条」を承認しましたが、後に反対するなど、コンスタンティヌス大帝の政策を支持し、大帝からの厚い信任を受けました。多くの著作を残し、主著の『教会史』をはじめ、歴史作品の『年代記』や『パレスチナ殉教者列伝』、護教的作品の『福音の準備』などがあります。
『教会史』は、イエスの出現に始まり、キリスト教が帝国の諸宗教の一つとして認知されるまで、キリスト教初期の約300年の歴史を記述した全10巻の著作です。多くの殉教談を含み、現存しない他の著作からの原文通りの多くの引用があり、初期のキリスト教会を知るための貴重な史料とされています。また、以後に書かれるいくつかの『教会史』のひな形となり、最もよく読まれる『教会史』の一つになりました。キリスト教世界の価値観の原点ともいえる本書は、現代まで大きな敬意を払われながら読み継がれています。
4月
ダンテ『神曲』
15世紀頃 Urb.lat.365
ダンテ・アリギエーリ(1265−1321)は、不滅の古典『神曲』の著者として知られるイタリアの大詩人です。フィレンツェの小貴族の家に生まれ、古典文学や修辞学をはじめ学問の研鑽を積みました。また、青年時代には上流社会にも出入りしました。1295年からフィレンツェの市行政の公務に就きましたが、内部で複雑な争いが繰り返される中、1301年に外交使節としてローマに赴きました。その間に政変が起こり、フィレンツェを追放され、イタリア各地を流浪し、二度と故郷に戻ることなく人生の幕を閉じました。
イタリア各地を流浪する間に執筆されたダンテの代表作『神曲』は、1万4233行からなる壮大な長編叙事詩です。「地獄篇」、「煉獄篇」、「天国篇」の三篇で構成され、詩人ダンテが生身でありながら彼岸の世界へ渡り、三界への旅を成就する物語が展開します。読者が主人公のダンテとともに歩みながら魂を浄化させていくことが意図されています。『神曲』は、ヨーロッパ中世の文学、哲学、神学、修辞学、その他諸科学の伝統を総括し、また古代ギリシアの長編叙事詩の正統を継承し、アラブ世界の思想も取り入れつつ、ルネサンスの先駆けとして、後世に多大なる影響を及ぼしました。
5月
カスティリオーネ『宮廷人』
17世紀 Urb.lat.1767
バルダッサーレ・カスティリオーネ(1478−1529)は、外交官、伯爵でもあった文学者です。イタリアのマントバに生まれ、ミラノで人文主義的な教養を身につけました。さらに、マントバに戻りゴンザーガ家に仕え宮廷教養を磨きました。その後、ウルビーノ宮廷に仕え、英仏の国王のもとへ使節として赴くなど活躍しました。その一方で、ウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガを囲み、著名な文人、芸術家が集う宮廷サロンにおいて洗練された文化的生活を送りながら文学活動にも勤しみました。著作には、主著の『宮廷人』のほか、詩作品の『ティルシ』などがあります。
全4巻からなる『宮廷人』は、上流階級の社交術や教養を説き、宮廷人の理想を論じた書です。イタリア・ルネサンス文化を背景に、16世紀初頭のウルビーノ宮廷に集まるウルビーノ公妃エリザベッタやプラトン学者のベンボ、詩人のアレティーノなど、当時の著名な教養人20名余りが、宮廷人が備えるべき教養、宮廷の女性、愛などをテーマに「宮廷人の完全な姿」をめぐり、4夜にわたってさまざまな議論を展開する様子を描写しています。本書は刊行当時話題となり、ラテン語をはじめヨーロッパの各国語に翻訳され教育書として広く読まれました。
6月
トゥキュディデス『歴史』
15世紀 Vat.lat.1801
アテナイ(アテネ)の名門に生まれたトゥキュディデス(前460頃−前400頃)は、「実証的歴史学の祖」といわれる、古代ギリシアの歴史家です。アテナイ陣営とスパルタ陣営が戦ったペロポネソス戦争(前431−前404)が勃発すると、この戦争が史上稀に見る大きな規模になると見越して、戦況の記述を開始しました。紀元前424年には将軍として植民市アンフィポリス救援のために出動しましたが、任務を果たせず責任を追及され追放処分となり、およそ20年に及ぶ亡命生活を送ることになりました。亡命生活の間にも戦争の情報収集や両陣営の観察に余念がありませんでした。
『歴史』は、ペロポネソス戦争を主題とする8巻からなる未完の歴史書です。トゥキュディデスは、おもしろい物語を書こうとしたのではなく、対象を政治・軍事史に限定し、綿密に吟味した史料に基づいて、中立の立場から真実をできるかぎり正確に記述することに努めました。しかも、単なる実証的な記述にとどまらず、荘重な筆致で書かれた文章は迫真の臨場感を漂わせ、追い詰められた時の人間の心理などが浮き彫りになり、人間の内面への深い洞察がうかがえます。史料に対する厳密さと、厳正な文体を備えた本書は、後代のギリシア、ローマの歴史家の模範とされました。
7月
フリードリヒ2世『鷹狩りの書』
13世紀 Pal.lat.1071
神聖ローマ皇帝であり、シチリア王でもあったフリードリヒ2世(1194−1250)は、皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コンスタンツェの間に生まれました。父帝が急逝した後、幼年の身でシチリア王に即位し、教皇インノケンティウス3世が後見人となりました。成人した後ローマで皇帝となりましたが、イタリア政策や十字軍遠征をめぐり教皇の不信を買い破門され、リヨン公会議で皇帝廃位を宣言されました。フリードリヒ2世は、近代的統治機構の整備や学芸奨励などにより、後世の歴史家から「王座の上の最初の近代人」と称えられました。
禁書とされた鷹狩りの教科書『鷹狩りの書』は、原題を「鳥による狩りの技術について」とする全6巻からなる著作です。第1巻は狩りをするに当たって必要となる鳥の種類や生態を知るために書かれた、今日の鳥類学に相当する近代的な内容です。第2巻は狩りの際に用いる猛禽の調教について、第3巻以降は各種の猛禽による狩猟技術について記述されています。フリードリヒ2世は、新たな課題が生まれたり、知見を得たらこの本に加えることを希望し、学問の発展を望みました。観察と経験に基づき、論理を体系化した本書は、後のヨーロッパ社会に先駆けた科学的思考を示しています。
8月
アッピアノス『ローマ史』
15世紀 Urb.lat.420
アッピアノス(生没年不詳)は、2世紀頃に活躍したエジプトのアレクサンドリア出身の歴史家です。アレクサンドリアで官職に就いた後、ローマ市民権を得てローマに移住しました。ローマでは法廷弁護人となり、騎士身分を与えられ活動しました。やがて後の皇帝となるマルクス・アウレリウスの師であり、著名な弁護人であったアッピアノスの友人フロントに推薦され、アントニヌス・ピウス帝より帝室の役人に任ぜられました。
『ローマ史』は、戦争を中心にローマの征服についてギリシア語で記述した、全24巻の歴史書です。王政期からトラヤヌス帝によるダキア遠征とアラビア征服までの歴史を、ローマの覇権拡大を追いながら、征服された民族ごとに記すという構成がとられています。現存するのは12巻余りですが、そのうちローマの内乱時代を扱い「内乱記」とも称される第13〜17巻は、他の文献史料には欠けているこの時代を伝える貴重な史料となっています。
9月
平野重誠『病家須知』
19世紀 Vat.estr.or.150
平野重誠(1790−1867)は、江戸時代に活躍した武士出身の医者です。幼少の頃から父について漢方を学びました。また、幕府の医学校校長で将軍主治医の多紀元簡に学び、その技量が認められました。しかし、官職には就かず町医者として庶民の治療に力を注ぎました。40代前半に『病家須知』を著し、以降、『養性訣』、『救急摘方』など、養生法や救急法などについて多くの著作を残しました。医学者、臨床家として優れた業績を残し、名だたる臨床家や医学史研究家らから高い評価を受けています。
天保3年(1832)から天保5年(1834)にかけて刊行された全8巻の『病家須知』は、庶民向けに医学・衛生・保健知識を具体的にまとめた日本初の家庭医学百科であり、家庭看護指導書です。書名は、病人のいる家(病家)すべからく知るべし(須知)を意味します。日々の養生の心得、病人看護の心得、食生活の指針、小児養育の心得、妊産婦の世話、伝染病の処置対策、救急時の手当て、助産の心得に至るまで、じつに幅広い内容になっています。文章は医学者以外にも理解できるよう、仮名交じりの和文で書かれ、漢字にはおおむね意訳したルビが振られています。医学の知識を医学者だけのものとせず、人々に広めることをねらった画期的な書です。
(参考文献:『病家須知 研究資料篇』編集・執筆/看護史研究会、執筆/小曽戸洋・中村篤彦、農山漁村文化協会、2006年)。
10月
『ローマ皇帝群像』
15世紀 Vat.lat.1903
『ローマ皇帝群像』は、117年に即位したハドリアヌス帝から3世紀後半のヌメリアヌス帝に至る約170年間にわたる70名以上のローマ皇帝、および皇帝を僭称した人物などを扱った伝記集であり、歴史書です。3世紀から4世紀にかけての著作とされ、アエリウス・スパルティアヌス、ユリウス・カピトリヌス、ウルカキウス・ガリカヌス、アエリウス・ランプリディウス、トレベリウス・ポリオ、シラクサのフラウィウス・ウォピスクスの6名の歴史家によって書き継がれたと伝えられていますが、4世紀から5世紀頃の1人の著述家による作品であるという説もあります。
本書は、多くの文献資料を用い、宮廷生活にまつわるエピソードをゴシップを交えながらおもしろく描いた、文学的要素を含む内容となっています。著作者の創作と思われる記述が目立つ、人名の誤りがあるなどのことから、史料としての歴史書として見れば異質な点がありますが、さまざまな研究者たちが精緻な研究を重ねています。早くから多様な言語に翻訳され多くの人々に読み継がれ、記録の乏しい2世紀から3世紀の歴史を再構成するための貴重な史料となって、ローマ帝国史の研究に重要な役割を果たし、歴史をつないでいます。
11月
小セネカ『メデア』
14世紀 Urb.lat.356
大セネカの息子である小セネカ(ルキウス・アンナエウス・セネカ、前4頃−後65)は、古代ローマの哲学者、劇作家、宮廷政治家です。スペインのコルドバに生まれ、幼少の頃ローマに出て修辞学と哲学を学びました。財務官から元老院議員になりましたが、声望の高さがカリグラ帝に嫉妬されました。のちに幼いネロの教育を任され、ネロの即位後も若い皇帝を補佐して善政に導きました。やがて皇帝に遠ざけられるようになると引退し、文筆生活を送っていましたが、陰謀に関係したという理由で死を命じられました。著作は大別して、『道徳書簡集』、『心の平静について』などの哲学関連と、『メデア』、『アガメムノン』などの悲劇を中心とする文芸作品があります。
『メデア』は、古代ギリシアの悲劇作家エウリピデスの作品を翻案した悲劇です。ギリシア神話に登場するコルキス王女メデアの、自分を棄てた夫への復讐を軸にしています。セネカは、ドラマの展開などよりも、人間の心の奥深くにひそむ情念の表現に重きを置きました。『メデア』をはじめとする悲劇作品は、後世のシェイクスピアやラシーヌなど英仏の劇作家に大きな影響を与えるなど、ヨーロッパの文化に大きな存在感を示しています。
12月
ペトラルカ『凱旋』
15~16世紀 Urb.lat.683
フランチェスコ・ペトラルカ(1304−1374)は、ルネサンスの時代を代表するイタリアの詩人で、ルネサンス人文主義の先駆者として古典文化復興の立役者の一人となりました。1304年、トスカーナ地方のアレッツォに生まれ、イタリア、フランスの各地に移り住みながら、1374年に亡くなるまで文学の創作や古典文献の収集・研究に力を注ぎました。作品は、ラテン語で書かれた詩、伝記、哲学、書簡などと、イタリア語で書かれた詩集『カンツォニエーレ』と『凱旋』(未完)の2作品があり、未完を含め20数編にのぼります。
『凱旋』は、6部からなる詩作品です。まず、「愛」が凱旋し、それに勝利した「純潔」が凱旋します。さらに「純潔」を打倒した「死」が凱旋するというように、前者に勝利したものが順繰りに凱旋するという形式がとられています。「死」の次には「名声」、「時間」が続き、最後に「永遠」が凱旋します。凱旋というのは、たとえば「愛」を渇望しながら報われないことに苦しむ詩人が、「純潔」において苦しみを乗り越えプラトニックな愛を称揚するというようなことを意味します。ダンテの『神曲』に並ぶ人気を誇り、広く読まれ、多くの図像の源泉ともなりました。