「牽引力」を伝える画期的装置
「手を引いて」誘導するデバイスの可能性
NTT コミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 感覚運動研究グループ 雨宮智浩 主任研究員(特別研究員)
───人間の五感の中でも、特に触覚に注目した理由について教えて下さい。
きっかけの1つになったのは、視覚や聴覚に障碍(しょうがい)を持つ方へ、視聴覚以外の方法で情報を伝える手段の研究でした。建物内で火災に遭った場合、館内放送でサイレンが流れたり、大声で叫んだりするなど、危険を伝える手段として最も多く使われるのは音声、つまり聴覚です。それ以外では、非常口などを記した誘導灯、つまり視覚による避難誘導方法も使われますが、炎や煙で視界を覆われた状況下では役に立ちません。しかし触覚を使えば、こうした環境の中でも文字通り「手を引く」ような自然な感覚で、避難する方向を伝えることができるかもしれないと考えたのです。
また、現状では訪日外国人に対する道案内はその大半が言語などの視覚情報によって行われていますが、日本語の看板をほとんどのアメリカ人旅行者が理解できないように、その効果は記載された文字や図柄の理解力に左右されます。この問題も、もし非言語情報である触覚によって方向を伝えることができれば解決できるはず。つまり触覚による案内誘導が実現すれば、文字を読めない子供から、異なる言葉や文化背景を持つ人々に至るまで、あらゆる人の役に立つはずだと考えたのです。
雨宮さんが開発した「ぶるなび」の歴代機種。左から、機構などを検証するプロトタイプ2点、「ぶるなび」初号機の内部機構モデル、「ぶるなび2」、最新機種の「ぶるなび3」
───それだけ多くの可能性を秘めた感覚領域でありながら、触覚を伝えるデバイスの開発が難しい理由とは、なんでしょうか。
触覚の内、携帯電話のバイブレーションのように振動で何かを伝える手法は今や一般的になっています。ただ、これでは案内誘導に必要な「方向」を伝えることはできません。方向を伝えるためには、その向きに引っ張ったり押したりする力を発生させる必要があります。ただ「作用・反作用の法則」が示すように、こうした力の手応え、つまり力覚(力感覚)を生み出すには地面などに固定された支点が必要です。そのため、牽引力をはじめとする力覚を生成するには空気噴流や磁力を用いるなど大がかりな装置が不可欠で、これまでに持ち運び可能なサイズでそれを実現したものはありませんでした。
もう1つの問題は、視覚や聴覚とは異なり、触覚は体に接していないと伝えることができないということです。しかも、触覚の感じ方は接触の状態だけでなく、その人の皮膚の硬さや感覚の鋭敏さ、刺激への慣れなど、個人差に大きく左右されます。あらゆる人に伝わるようにある程度大きな牽引力を、持ち歩くことのできるポータブルな装置でどのように発生させるか。それが最大の課題でしたね。
人間の錯覚を利用して牽引力を生成
1方向に牽引力感覚を生成するクランクスライダー機構の仕組み。分銅が速く動く方向に、感覚上の「引っ張る力」が生じる(提供:NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
───どのようにして、これらの課題を解決することに成功したのでしょう。
注目したのは、人間は速い動きに対しては敏感である一方、遅い動きは知覚しにくいという感覚特性を持っていることです。つまり、物理的に牽引力を生み出すのではなく、錯覚を利用して「感覚的に牽引力を伝える」ことが可能ではないかと考えました。具体的には、ある方向には速く、逆方向にはゆっくりと分銅(重り)が動く仕組みによって、速く動くほうにのみ牽引力を知覚させるというアイデアです。この動きを繰り返すことによって、物理的には振動しているだけでも、あたかも牽引されているように感じる機構の開発に取り組みました。
「ぶるなび」初号機(重量約250g/2007年)の内部機構モデル。箱の中を往復する分銅によって、単一方向に牽引力感覚を生成する(写真提供:NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
具体的には、円筒内を分銅が非対称的に往復するクランクスライダー機構(※1)の試作を重ねながら、感覚上の牽引力の大きさと、装置自体の小型化のバランスを探っていきました。こうして完成したのが、2007年に発表した「ぶるなび」の初号機です。これはコードレスフォンサイズの箱形のデバイスで、手で握るとあたかも手を引かれるような力が感じられます。この初号機を用いて実際の用途を想定した実験を行いながら、さらなる小型化や、多方向に牽引力感覚を発生させる方法の研究に取り組んでいきました。
軸回転運動を往復直線運動へ変換、あるいは往復直線運動を軸回転運動に変換する機構のこと。自動車などのレシプロエンジン(ピストンの往復運動をクランクシャフトで回転運動に変換)を代表例として幅広い領域で応用されているが、「ぶるなび」のような非対称な動きは機構自体への負荷が大きくなり、より慎重な設計が要求される。
肌身に寄り添うツールへの道
正しい方向を触覚で伝える実験に成功
───携帯可能な小型デバイスによって感覚上の牽引力を生成させることに成功したわけですが、それが社会にもたらすインパクトについて教えて下さい。
「ぶるなび」初号機では1方向への牽引力感覚をつくり出すことに成功しましたが、実際の空間で人の手を引くように誘導するためには、この感覚を地面と水平に360度あらゆる方向へ生成しなければなりません。さらに、実際にその手法によるナビゲーションが有効かどうかを検証するため、まずエンターテインメントシステムとして「初心者ホールスタッフのための賢いサーバートレイ」と題したデモンストレーションを行いました。これは、体験者が持ったお盆の下に360度の回転軸を仕込み、そこに「ぶるなび」初号機を取り付けることで、あたかもお盆自体に手を引かれるかのように、料理を注文した人へ届けるというもの。体験者からも「直感的である」というフィードバックを多くもらうことができ、視覚や音声などの伝達方法によらないナビゲーションを実現しました。
「ぶるなび2」(約260g/2011年)。円盤型のケース内で機構が回転し、全方位へ牽引力感覚を生成する(写真提供:NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
───続く「ぶるなび2」では、360度への牽引力感覚の生成に成功しています。
当初の目的の1つであった、視聴覚障碍者の方への避難誘導を達成するためには、それが日ごろから持ち歩くことのできるサイズであることが必要です。そこで、往復運動をする分銅が旋回するような内部機構を開発し、DVDディスクと同じ直径の円盤型ケースに収めることで、360度全方位へ牽引力感覚をつくり出すことに成功しました。
この「ぶるなび2」では、京都市消防局と京都府立盲学校の協力のもと、視覚障碍者を対象とした歩行誘導実験を行っています。体育館内に模擬街路をつくり、手にした「ぶるなび2」のナビゲーションに沿って歩行できるかどうかを検証したのです。その結果、参加者23名のうち21名が事前のトレーニングなしで順路に沿って歩行することに成功しました。装置の使い方を教わることなく、直感的に正しい方向を認識できるという点で、大きな手応えを感じましたね。
独自の取り組みで劇的な小型化を達成
「ぶるなび3」(約42g/2014年)。機構を刷新し、大幅な小型化と軽量化を実現した最新モデル(写真提供:NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
───さらに「ぶるなび3」では、指先でつまんで使用するサイズまで、まさに劇的な小型化を達成しています。常時携帯可能なサイズという点では、かなり実用化に近づいたのではないでしょうか。
構造を1から見直し、初号機のようなクランク型の機構を取りやめつつ、非対称な振動を行うメカニズムの採用によって、サイズ比で約1割にまで小型化することができました。牽引力の生成方向は1方向ですが、小型化によって複数のデバイスを同時使用することも考えられるようになりましたね。
「ぶるなび3」を釣り竿に見立てた魚釣りゲーム。垂らした重りに魚が食いつくと、魚の「引き」を感じることができる
その上で問われるのは、この技術をどういったサービスや製品に導入できるのか、どのような新しい用途があるのかということです。そこで研究所のオープンハウスでは、「ぶるなび3」を手に持った釣り竿に見立てて、モニタ内の魚が食いつくと「引き」を感じるという魚釣りゲームや、「ぶるなび3」を犬のリードに見立てた「バーチャル犬の散歩」など、ゲームとして楽しめるようなプレゼンテーション作品を発表して、この技術の効果をわかりやすく体験してもらえるように工夫を凝らしました。
より人間的な情報伝達のあり方へ
「ぶるなび3」のプレゼンテーション用ゲーム作品「バーチャル犬の散歩」。画面の中の犬の引っ張る力と方向を感じることができる
───この先の展望や目標について教えて下さい。
第1の目的は、誰もが肌身離さず持っているスマートフォンに組み込めるサイズを実現しつつ、さらに明確な牽引力を作り出すこと。そうすれば、用途は一気に拡大するでしょう。災害時などの避難誘導のほかにも、地図アプリと連動してナビゲーションをより直感的に行ったり、無くしたものがある方向を指し示してくれたりと、さまざまな使い方が考えられます。身体感覚の拡張という側面でいえば、視覚障碍者マラソンの伴走者役を務めることも可能になるでしょう。
「ぶるなび3」を導入した試作機による歩行誘導風景。誘導者の指示を受けて、移動方向へ牽引力が生成される(写真提供:NTT コミュニケーション科学基礎研究所)
また、触覚の受容器は全身に広く分布しています。いわば全身で情報をキャッチできるわけですから、人間の行動を補助する意味でも大きなポテンシャルを秘めています。現在のスマートフォンに使用されている振動モーターは、振動によってアラートを伝えるだけですが、そこに手を引くような感覚が加わることによって、より人間の気分や感情に訴えかけるサービスが登場すると思います。その効能がスマートフォンに実装されることで、これまでの視聴覚中心のツールから、さらに使う人の気持ちに寄り添った存在へと、スマートフォン自体の位置付けも変わっていくかもしれません。その日を目指して、さらなる出力の拡大と小型化に取り組んでいきたいと思います。