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モラトリアムを引きずっていた若者が、自分の強みと出会うまで【ベイジ 枌谷力対談/前編】

有名企業の出身者を指す「〇〇マフィア」という言葉を目にする機会も増えてきた昨今。実はNTTデータ出身者も様々な分野で活躍していることをご存知でしょうか。OB・OGの皆さんが、なぜNTTデータに入社し、卒業していったのかを赤裸々に語り合う本企画。第二回目となる今回は、BtoBに強いWeb制作会社として知られる株式会社ベイジの代表であり、SNSなどでも精力的に情報発信を続けている枌谷 力氏をお迎えし、人事本部 人事統括部長である森田賢二との対談をお届けします。

目次

一度目の就活失敗を経て発見した「内定を取りやすい面接術」とは?

枌谷 力
株式会社ベイジ
代表取締役社長

枌谷 私がNTTデータに新卒で入社したのは1997年。森田さんとは同じ第三産業事業部の営業部で、年次もひとつ違いだったのですが、同じグループではなく隣のグループだったので、一緒に仕事をしたことはありませんでした。ただ、同じ部の若手として時々雑談をすることはありましたよね。あと、森田さんとは2度ほどサバイバルゲームでご一緒したことがあって、私の中で森田さんは迷彩服の印象があります(笑)。

森田 よく一緒にゲームをしていましたね(笑)。私がNTTドコモに出向している間に枌谷さんはNTTデータを退職していて、当時はSNSもなかったので、なかなかお会いする機会がありませんでした。しかし、枌谷さんがTwitterを始めてからは、一方的にフォローしていましたよ(笑)。とても活躍しているなと。さて、まずは枌谷さんがNTTデータに入社するまでのことを伺いたいのですが、どのような就職活動をされていたのですか?

森田 賢二
NTTデータ
人事本部 人事統括部長

枌谷 私が最初に就職活動をしていた1995年当時はバブル崩壊後で、就職氷河期がより深刻化していた頃でした。阪神大震災、オウム真理教など、その年の世相も明るくなかったですね。その頃の私は、そもそも働きたくない、ずっと学生でいたいと考えていて(笑)。だから、本当に入りたい会社なんて一つもなかったんです。

そんな状態で消去法的に仕事を選んでいたので、会社選びの的も絞れていないまま、広告代理店、レコード会社、テレビ局、新聞社、メーカー、マルチメディア企業などの、自分が名前を知っている人気企業、華やかそうに見える企業を片っ端から受けて、当然のように落ち続けていました。

当時はインターネットがなく、まずはハガキでエントリーする時代だったのですが、300社くらいにハガキを出して、50社以上の会社説明会や面接に参加して、最終的には一社からしか内定をもらえず……。

森田 結局、その会社には就職しなかったわけですね。

枌谷 はい。その会社が飛び込み営業をするような会社で、絶対に自分には向いてないと思ったのもありますが、就活終盤になって、面接で自然に話すコツを掴んだ感覚があったんです。それで、もう一度就活をやり直したいと考えて、親に自分で学費を出すからもう一年やらせてほしいと頼みました。大学のある先生には、「大学は就活のための場所じゃないでしょ」と正論で否定されたこともありましたね(笑)

森田 当時は就活浪人が珍しかった時代でしたからね。ちなみに、そのときに掴んだ面接のコツとは?

枌谷 自分をより優秀に、より大きく見せようとするのではなく、ターゲティングと等身大のストーリーが重要だというに気が付きました。2年目の就活では、業界はIT、職種はSEにターゲット業界を絞り、志望動機として、私が大学で学んでいた史学(日本近世史)とSEとの関連性とを結びつける話をするようにしました。

森田 史学とSE、ですか?

枌谷 史学において避けて通れないのが論文です。この論文を書くという行為は、分解すると、調査→考察→言語化なんですよね。それはSEの仕事とも共通するのではないだろうか。だから歴史が好きだった私は、SEにも向いているのではないかと思った、といった具合です。私は主観的にそう感じたが本当にそうかどうかは分からないので、人事の方に判断してほしいといったように、自分は優秀だと売り込むのではなく、相手に判断を委ねるような姿勢や話し方に変えました。

このようにしたところ、初年度は50社に応募して1社しか内定が出なかったのに、2年目は8社に応募して7社から内定をいただけました。「この会社がいいんです」という本心ではない強引な志望動機も用意しなかったのですが、不思議なのは、NTTデータも含めて、「なぜうちの会社なの?」とは聞かれませんでしたね(※)。そして内定をもらえた中で、ブランド力と規模の大きいNTTデータを選びました。

(※)現在のNTTデータでは、候補者の皆さんとNTTデータ双方のミスマッチを防ぐために志望動機を伺っています

森田 なるほど。しかしなぜターゲットをSEに絞ったのですか?

枌谷 たいした理由はなくて、一回目の就活のときに受けた、SEに向いているかどうかの適性を診断するテストの点数がいつもよかったからです。そこからSEと史学を結びつけるストーリーを作り出したのは、いわゆるクリエイティブ活動ですね(笑)。

自らを「未熟だった」と語る枌谷氏が、Webデザインに出会うまで

森田 当時、枌谷さんと私が在籍していたのは、「第三産業システム事業部」という部門で、公共や金融と比較すると規模は小さい様々なソリューションを幅広く扱っていましたよね。

枌谷 私のグループはその中でもICカードシステムを扱っていて、当時は大学の学生証をICカードにした管理システムや、「インテリジェントビル」と呼ばれていたオフィスビルの入退室管理システム、あとは会員証をICカード化するようなシステムの営業を行っていました。

森田 当時のNTTデータの中で花形の仕事といえば、やはり大規模な公共やテレコム系のプロジェクト金融系ネットワークサービスなどです。平たく言えば、第三産業システム事業部が扱っていたのは、それ以外の分野として、カテゴリに分けられないような、さまざまなシステムを手がけていました。明確にクライアントがいるプロジェクトばかりではなく、パッケージの開発なども行っていましたね。

枌谷 そういえば私は入社してから半年以上、全国に数百か所あるNTTグループの事業所に対して1台6万円程度のICカードリーダーを売った時に発生する、契約書、注文書、注文請書、納品書、受領書の一式を整理してひたすらキングファイルに綴じる仕事ばかりをやっていました。社会人になって最初に会社を辞めたくなったのはその頃ですね(笑)。

その時は「事務処理をするために社会人になったわけじゃない」と不満に思っていたのですが、その頃に大企業ならではの厳格な契約業務に精通していたおかげで、独立したり、起業したりしてから、自分自身で契約業務を行う時に大変役に立ちました。今経験していることが将来何の役に立つかは分からないもので、近視眼的に物事を見てはいけないな、と今なら思いますね(笑)。

森田 今の時代はDXが進むことで、いわゆる雑務的な作業は減ってくると思いますが、一方で、枌谷さんがおっしゃるように、そうした業務の量をこなすことで見えてくるもの、身につくこともあるんですよね。

森田 当時のご自身を改めて振り返ってみるとどのようにお感じになりますか?

枌谷 今思えば、私自身が本当に未熟だったと思いますね。特に精神面が未熟で、「商業主義の渦に巻き取られたくない」「つまらない大人になりたくない」といった、いかにも10代が抱きがちな社会に対する反発心をずっと引きずっていて、でも自分には自信がなくてそこから飛び出す勇気もなく、といういわゆる認知的不協和の状態でした。しかも周囲を見れば優秀な人たちばかりで、NTTデータの中で自分の居場所がない感覚をずっと持っていましたね。

森田 しかし、枌谷さんは当時から何かを感じさせる個性的なタイプでしたよね。ファッションも周りに迎合していなくて。

枌谷 白シャツに紺のスーツは絶対に着たくない、みたいな変な所にこだわっていましたが、全然本質的じゃなくて、今思い出すとかなり恥ずかしいですね(笑)。しかしながら当時の周囲の雰囲気を思い返すと、みんな優しかったと思います。先輩から厳しく叱られてもおかしくなかったはずなのに、私の精神的な未熟さや実力と見合わない奇妙なこだわりを責めるでもなく、私を尊重してくれていました。

森田 私の記憶には、当時から枌谷さんは作成する資料のデザインに凝っている印象が強く残っています。当時はPowerPointをデザイン的に使いこなせる人も少なかった時代ですが、誰も枌谷さんには敵わないくらいに抜きん出ていました。そういえば、当時のイントラネットに掲載する第三産業システム事業部の営業部のホームページも枌谷さんが作りましたよね?

枌谷 そうですね。当時は自分たちでもホームページを作ってみよう、みたいな牧歌的な時代で、私は特に暇そうな若手に見えたので、任されたのだと思います(笑)。Photoshopなどを会社に買ってもらって、仕事中に一人でホームページを作っていました。うちの課長はすごい人だということをアピールしようと、有名アーティストの来日写真に課長の顔をコラージュした画像をイントラネットにアップして、「こういうのはまずいよ」って部長に叱られたりしていましたね(笑)。

森田 簡単におっしゃいますが、枌谷さんだからできたことだと思いますよ(笑)。ホームページも自分たちで作ろうというのは、当時の自前主義のあらわれですね。

枌谷 私がデザイナーに転職しようと思ったのは、いくつか複合的な理由があるのですが、そのときの経験もデザイナーを志す一つにきっかけになりました。入社2年目の頃には、会社員で居続けたくないという気持ちがかなり高まっていて、会社を作って独立したいと思っていました。ただ、何の会社を作っていいか分かってなかったのですが、この時のホームページ作りを通じて、「デザインの会社を作りたい」と明確に考えるようになりました。

認めてくれる先輩の一声で、デザインへの想いがさらに強く

森田 自分に自信がなかったとおっしゃっていましたが、Webデザインとの出会いもあり、その殻は破ることができたのですか?

枌谷 いえ、NTTデータ在籍中は大きな変化はありませんでしたが、入社2年の頃には「いつか独立する」ということだけは決めていました。Webデザイナーをめざし、退職までの2年間、業務時間外にWebデザインの学校に通っていました。

森田 枌谷さんは最強の提案書を作る方法(※2)を公開していますが、今思えばNTTデータに在籍していた頃からその片鱗をうかがわせていたように思います。

枌谷 たしかに今の私の提案書デザインのノウハウは、NTTデータにいた頃、ある先輩から提案書の書き方を教わった経験がかなり大きかったです。今度、提案書の書き方に関する書籍をいよいよ出版することになったのですが、その先輩と出会っていなかったら、その書籍も生まれていないと思います。先輩から、飲み込みが早くて提案書を書くセンスがあると言ってもらえてようやく、少し自信のようなものが芽生えた気もします。

森田 枌谷さんは、やはり自分の手でものを作ったり、デザインしたりすることが楽しかったのでしょうね。

枌谷 そうですね。上司や周囲から評価される、感謝される、というのも仕事の楽しさの一つとは思いますが、私は、何かを作るとか、具体的な成果をアウトプットする、共通のゴールを達成するといった、「コト」に向き合っていないと、満たされないのだと思います。誰かを喜ばせたり、納得させたりすることをゴールにするような、いわゆる「ヒト」に向かう仕事はなかなか苦しい。

例えば、偉い人や上司が承認すればOK、駄目といえばやり直し、みたいな仕事とかですね。仕事の中では時にそういう立ち回りも必要と思いますが、特に当時はそういう仕事がどうしても受け入れられませんでしたね……。

(※2)外部サイトへ移動します


森田 私も似ているかもしれません。私は営業担当としてのキャリアが長いのですが、営業にとって「ヒト」は避けては通れない問題です。私は昔から引っ込み思案で、本来「ヒト」に向かうのは苦手かもしれません。ただ、相手と良い関係を築く「コト」と捉えると少し違う見え方がして、楽しく頑張れているのかもしれないと思いました。(笑)

さて、そんな楽しいことに気付いた枌谷さんですが、それでもNTTデータを辞めることについて不安はなかったのですか

枌谷 不安よりも、デザインを仕事にしたい気持ちのほうが圧倒的に強かったですね。その想いから、当時終業後にデザイン学校に通っていたのですが、そこでの学びが本当に楽しくて、仕事中も学校の課題のことを考えていましたね。

だから、ここでこんなことを言うのは申し訳ないのですが、NTTデータを辞めてはじめて、自分の社会人人生が始まった感覚を持っているんです。転職後は収入が半分になりましたし、徹夜も多く、福利厚生もほとんどなく、労働環境はかなり悪くなりましたが、それでも仕事がめちゃくちゃ楽しかったんです。

森田 話を伺ってみて、枌谷さんのツイートも拝見していることも踏まえて思うのですが、やはりNTTデータにいた頃から「あるべき姿に関する美意識」と「独自の分析力や美意識」をお持ちになっていたのだと思います。それが単に表に出ていなかっただけで。NTTデータにいた頃のデザインへのこだわりなども、今の仕事につながっているように感じますね。

枌谷 そうですね。もちろん、そのままNTTデータに残り続けていたら、それはそれで別のやりがいを見つけていたかもしれませんが、こればかりはどうだったかわかりませんね。

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現在はWeb・マーケティング領域で大活躍をされている枌谷氏にも、就職活動で悩み、自分らしい生き方を求めて試行錯誤した時代があったことを赤裸々にお話いただくことができたインタビュー(前編)ですが、後編でも引き続き枌谷氏と森田の対談をお送りします。

ベイジを設立した経緯、マネジメントや人財の採用といった「組織づくり」や、ファーストキャリアとしての“NTTデータの活かし方”などについても語っていただきます。後編もぜひご期待ください。

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※掲載記事の内容は、取材当時のものです