家電製品から革命が始まっている
テレビは隠れた主人公
───IoT(Internet of Things)は「モノのインターネット」という訳語で紹介されることが多いですが、人や企業によって解釈もさまざまです。村井教授は一言でどう定義されているのでしょうか。
「全てのモノがフルスタックのTCP/IP(※1)を喋るコンピューターになる」という定義になると思います。あらゆるモノが本当のインターネットノードとなってインターネットと繋がるようになったということです。
これまでインターネットと繋がっていたのはコンピューターでしたが、それがあらゆるモノになる。コンピューターと全く同じ通信機能、責任を持っている時代になったというのが一番短い説明ですね。
───具体的にIoTの普及はどこまで現実味を帯びているのでしょう。注目している事例がありましたらお聞かせください。
最もIoTらしい例は、かなり発展してきた「スマートホーム」のようなものですよね。空調などのエネルギー関係は賢い繋がり方をするようになりました。その前提になっているのが家庭におけるWi-Fiの普及です。つまり電気製品がWi-Fiを介して基地局になれる。そこからアプリと繋がって、家庭の中のネットワークの一部になります。
スマホで機器のオンオフや設定ができるようになるし、最近の空調機器はダニやゴミも吸っているから、ヘルスケアにも役立てる。その辺りが身の回りでは発展しているのが現状です。
しかし、本当にフルスタックのTCP/IPのインターネットが乗っている家電機器は日本だとテレビなんです。2011年7月24日までにデジタル化すると決めましたが、これは歴史的にすごいことでした。国が「家のテレビを全部買い換えてください」と言ったんですから(笑)。
今すべてのテレビにはTCP/IPがあり、Ethernetが繋がるスペックが標準です。皆さんあまりインターネットに繋がる機能を使っていないから気付かないでしょうが、デジタルテレビは全部がインターネットに繋がるんですね。裏にEthernetの「RJ45」というコネクタが付いているし、Webブラウザーも搭載されています。
どのように使われるかは未知数の部分もありますが、テレビがインターネットに繋がれば、画面も大きいし、いろんなことができるようになるのではないかという夢があります。テレビはIoTの隠れた主人公なんです。
モノが自然の状態を検出する
───テレビとIoTの可能性について、もう少し詳しく伺えますか。
例えば米国の「Netflix」は、完全にIoT時代に即したビジネスを構築できています。米国ではテレビ本体ではなく、その脇にあるセットトップボックスをインターネットに繋ぎますが、テレビがインターネットに繋がったことを最大限に利用したのですね。
視聴者たちがどんな番組を見ているかをベースに「ハウス・オブ・カード 野望の階段(原題:House of Cards)」というテレビドラマを作り、それが「エミー賞」まで獲りました。視聴データを分析して、視聴者の一番喜びそうなドラマのシナリオを練り上げたのですね。これはビッグデータ分析の成功例ですが、同じ動きが日本でもこれから起こるはずです。
ハウス・オブ・カード 野望の階段 シリーズ予告編 – Netflix(2016/03/04 に公開)
───コンテンツビジネスの設計やサービスデザインに家庭の機器が強く影響するのは、IoTの話題として意外でした。
やはりテレビという機械のそばには、人間のユーザーがいますから。テレビを通じてユーザーの情報がすべて集められ、分析され、良いサービスに繋げていける。こうしたモデルは、IoTに期待される典型的な役割でもあるわけです。
───モノのインターネット化という表現より、「人間のそばにいるモノ」のインターネット化、という表現が相応しい例に思えました。
そういった側面もIoTにはありますね。モノが検出している人間の動きも一つの武器になると思います。あるいはモノが検出する自然の状態なども、何かを調べたいときに大きく役立ちます。
例えば、農作物の発育状態がどういう状態になっているかをセンサーが検知します。そのデータを集めると、その農作物に対してケアができるだけではなくて、地域一帯でどれだけの生産量を見込めるのかといった分析や、作物が病気になった時にどう対処できるのかといった対処が、センサーが繋がっている時と繋がっていない時で全然違います。
産業の成長は、4番目の時代へ
───IoTは社会やビジネスを変えていくということですね。
それ以前にもいくつか変革がありました。アナログの時代、コンピューターの時代、アフター・インターネットの時代。この3段階で、産業は成長を遂げてきました。
アフター・インターネットの時代までに、1つの産業を縦に繋げる動きが加速しました。全部がデジタルで繋がるようになって、データが流通するようになったからです。データサイエンティストも増え、流通するデータをどうやって利用するか、共有できるか、連携できるかという動きが起こりました。
今、これらの次に来ているのがIoTの時代です。この時代の特徴は「横」に繋がって発展できることです。先ほどのNetflixなど、コンピューター以外にデータ利用するためのモノが出てきたので、カバーできる範囲は無限です。
インターネットはすべての分野、すべての人に繋がることを目標にしてきましたが、すべてのモノが繋がるとどうなるか。
典型的な例としては、農作物の栄養素と人間の健康を結びつけることが考えられます。今まで「健康」という分野と「農業生産」という分野は、それぞれの産業として縦に分離していました。これが連携することで、新しいアプローチが生まれます。ハイブリッドな産業を結び付けて、社会全体に新しいインパクトを起こせるところまで来たのです。
TCP/IPは、インターネットの基盤となるプロトコル(通信規約)群。TCP(Transmission Control Protocol )は伝道制御プロトコル、IP(Internet Protocol)はネットワーク間プロトコルを指す。プロトコルのスタック(階層)には、リンク層、ネットワーク層、トランスポート層、アプリケーション層がある。IoTに対応したモノは、それら全てを持っている。
あまねくデジタル化の恩恵を与えたい
低価格化がもたらすインパクト
───モノを通じて集められたデジタルデータが集積され、しかも分析のパワーが上がっているので、複数の産業が連携して活かせる未来が来るのですね。
そうです。その流れで注意したいインパクトが「価格」です。1995年頃に地図上に現在位置を示そうと考えたとき、1個のGPSは35万円ほどしました。今は全てのスマートフォンに入っているし、アプリケーションも無料ですから、位置情報を取るのにお金は実質かかりません。
だから、僕は学生に「今年30億円かかる実験装置も社会に普及したら100円になるかもしれないのだから、あまり値段のことは気にせずに夢の研究をやってほしい」と言うんですね(笑)。それくらいガラッと変わってしまう。
しかもスマホは僕が学生時代のスーパーコンピューターより何千倍も早いし、ネットに高速で繋がっています。フォグコンピューティングやエッジコンピューティング(※1)と言いますが、それも何人かのスマホを集めれば計算できるくらいの話ですから。とにかく計算料もタダになった。
こうしたスマホが広く普及したことによって、センサー部品の低価格化が進み、農業などがIoT化できるようになりました。何かが普及してくれれば、それだけ新しいテクノロジーが社会に与えるインパクトが広がります。
今まで価格が高いからできなかったという分野、そんなことまでやる必要がないと思っていたけれど「これだけ安くできるならやってもいい」となる分野が増えてくるはずです。だから進化も激しくなると思いますね。特に今まであまりデジタルデータやネットワークの恩恵を受けていなかった分野が一番楽しみです。
───やはり、農業や酪農、林業、漁業といった第1次産業が恩恵を受けるのでしょうか。
そうですね。それに産業の間に横串を刺せますから、巷でよく言われる「6次産業」の掛け算がやりやすくなります。1次×2次×3次を掛け合わせるというのは、代表的な動きとしてあるかもしれません。
幸福度を測る手立てになる
───ここまでIoTが産業や社会をどう変えるかの話が中心でしたが、IoTが人間そのものを変える可能性もあるのですか。
例えば今、AIに注目して研究が進んでいるとされる分野の一つに、精神科医療があります。データがいろいろと分析される中、エビデンス(臨床結果などに基づく根拠)に基づいてさまざまなサポートができると思うのですね。患者のコンディションを細かく把握することはとても大事ですが、そのためのアプローチは大きく2つあります。
まずは、診察中に行うインタビューでは知り得なかった情報を、ライフログのような「生活の記録」をトラッキングして知るアプローチです。私たちは日常の予定をスケジュールやカレンダーで管理しますが、IoTを応用して全部APIで読んで分析すると、幸福状態などもわかる。これはすでに実践している精神科医の方がいらっしゃいます。
もう一つは、バイタルな反応のトラッキングです。どういう会話や行動をしたらどういう反応をするか。センサーが発達することで、脳の状態だけではなく、発汗といった、今までだと分からなかった非常に繊細な情報も取れるようになってきました。
それらの情報が集まってくると、D to D(ドクター toドクター)のサービスができてきます。医師が何かをしようとした時に、臨床データを他のデータと結びつけ、今までの症例などから有効な治療法に繋げることが可能になります。
人間がIoTで変わるのかという意味では、ある程度ですが、幸せとか満足している状態というのが客観的に分かるようになると思います。ただ、当の人間自身がどうなりたいかという「知恵」が先にあるべきで、人間のコンディションを発見したり、分析したりするための技術は、その後に来るものだと思うのです。
私自身は機械に支配されることは絶対にないと思いますが、人間が健康で幸せに生きるためにサポートするメカニズムは、AIやビッグデータの側から出てくるようになりました。今後は労働や学習といったものとの関係を分析して、人間の成長をサポートしていくこともできるはずですから、大きな期待を寄せています。
AIを使ったアプローチも利用
───IoTがインターネットの仕組みまで変えることはあり得るのでしょうか。
初めからインターネットは比較的、何が起こっても耐えられるようにつくられていますから、インターネットそれ自体が変わることはありません。しかし、溢れるデータを処理することがこれまで以上に必要になります。ソフトウェアベースで資源の最適化をいつも考えないといけません。
現在もネットワークのアーキテクトの人材育成に取り組んでいますが、それに加えてAIを活用するような考え方が必要です。インターネットのトラフィックのパターンを見ると、お昼休みはこうで、夕方はこうで、明け方はこうで、土曜と日曜はこうなるといったパターンがあるんですね。
───電力の消費量と同じなんですね。
そうです。人間の生活の平均値みたいなものにすごく影響されます。その動向を事前に予測して、トラフィックの全体をならしているのです。時々は特異点があるのですが「これはカレンダー上で予想できるだろう」とか、すでにAI的アプローチでやっています。
こうしたことを繰り返しやっていますので、何が来てもそれほど根本的に変わることはないと思いますが、サイバーセキュリティに関してはこれから考えていかなくてはいけない大きな課題ですね。
フォグ(霧)コンピューティングとは、シスコシステムズが提唱するネットワークモデル。各デバイスから遠い地点にサーバー群を置くクラウド(雲)コンピューティングに対し、IoTの普及に伴って実現する分散型モデル。同様にエッジコンピューティングとは、デバイスに近い現場に小型サーバー(エッジサーバー)を分散させ、通信遅延が少ない処理を目指すモデルのこと。
グローバルイシューの解決にも貢献
どの程度、安全性を担保するか
───IoTの時代、インターネットのトラフィックが膨大になるとサイバーセキュリティが必要になるというのは、新たな危険と隣り合わせということでしょうか。
インターネットのアーキテクチャで安全性を保つには、暗号技術を使います。そのレベルは「このデータはこれくらいまでの安全性を保とう」といった具合に、それぞれで異なるものです。ものすごく安全にするには、暗号のアルゴリズムでギュッと固める必要がある。暗号を解くときにもCPUやメモリーをたくさん使うんですね。
テレビの映像のプロテクションにも暗号技術が使われています。安全な通信をすることのトレードオフですが、この作業のためにデータのレイテンシー(遅延)が発生します。テレビの場合は時報を打たなくなった(※1)ほどの影響ですが、手術室などの命に関わる現場では重要な検討課題です。
現在、手術室の道具をIoTで繋げて、手術の指示を外から出せるようにする研究開発が進んでいます。MRIのデータを3次元の映像に変換し、それをARで見られる立体視メガネをかけて医師に手術してもらうようなモデルです。その時、どれほどのレイテンシーがあっていいのか、必要な精度によって要求される技術がまったく違ってきます。
そうした安全性をどういう風につくっていくか。アーキテクチャの新しい課題として取り組む必要があると思っています。ただ強い暗号をかければいいだけではなく、そのデータをどういう経路で送るかといったことも検討しなければいけません。絶対にハッキングされてはいけませんからね。新しいものが繋がって、新しいウェアが要求されるようになっている例です。
計量化できるリスクは対処可能
───レイテンシーの発生やハッキングのほか、IoT時代に気をつけなくてはいけない点はどこでしょうか。
やはり、個人情報のセキュリティに関わることでしょう。一番外側にある技術的なことは解決しやすいのですが、権利の問題など考えたときに新しいリスクが発生します。
例えば、病院で治療を受けたときに発生するデータは誰のものか。患者の身体なのだから患者に権利があるという考えもあれば、オペをした医師にその権利があると言えるかもしれない。じゃあ、その権利の分配率を著作権のように決められるかといったら、それも難しいでしょう。
これからの個人情報をどういう風に考えていくか。例えばアノニマイゼーション(匿名性)というものを100%確保することはできないんですね。よく「取得した情報は個人には紐付けられないので、個人情報には当たりません」といった言い方がなされます。しかし、買い物を例にすると「ある集団のうち何人がある店へ行き、そのうちの何人が次にどこの店へ行った」と追跡して割り出していくと、個人が特定される確率が徐々に高まっていく。そういう研究もだいぶ進んできました。
リスクが確率として分かれば、別のかたちでヘッジできるような社会システムが設計できます。昨年「官民データ利活用推進基本法」という法律が成立し、私が委員長を務める「官民データ活用推進基本計画実行委員会」で、ようやく検討が始まりました。損保会社にはデータのリークに関する保険商品がありますが、社会制度としても大事になってくると考えています。
───リスクは完全にゼロにはできないから、それを乗り越えて社会が前進するための方法を考える必要がある。法律で縛るだけでなく、異なる道を模索しようという発想ですね。
その通りです。そうすれば民間でうまく解決をしながらやっていけると思います。その産業も潤えば、次第に社会に広がってくるでしょう。やはりルールで決めてしまうより、価格設定のようなもので調整ができてくれば楽です。本当に信頼できるものは、ものすごく安い保険料で済みますから。
人間が尊重される世界を目指して
───今後の村井教授の目標を教えてください。
やらなければいけないことがたくさんあります。今までデジタル化やネットワークデータの恩恵をあまり受けず、大きな課題を持っていた領域の課題が解決できるようになってきたのですから、それを実際に進めていくのがまず一つです。
もう一つ、今はナショナリズムのようなものが世界でものすごく台頭してきていますが、人類史上で初めてグローバルに、一つの空間で人類が協調できる空間がインターネットだと思うのです。国と国が交渉したり、国連で調整したりすることはできても、地球全体の課題を人類全体で解いていく場所は、グローバルなインターネットという空間です。
そのパイオニアの一人として、自分の役割をきちんと果たせる努力をしていきたいと思っています。それはインターネットという環境を守ることにもなるし、発展させることにもなると考えています。
具体的には政策に対する提言であるかもしれないし、一番いいのはグローバルイシューの解決です。最近は国連の「持続可能な開発目標(SDGs)」の解決を目指し、IoTを組み合わせて取り組もうとしています。
───村井教授が思い描く未来とは?
人間が中心にいる未来でなくてはいけませんね。人間をいかに尊重できる社会を作っていけるかに尽きると思うのです。それは生まれてくる子どもの健康でもあるだろうし、健康に生きられるように地球環境を守ることかもしれません。
実は、私が研究を始めた時、コンピューターが大嫌いでした。当時のメインフレームコンピューターは、計算機室の前で行列して、パンチカードを打ってプログラムをつくり、計算させて、3日経ったらようやく結果がプリンターで出力されるというものです。コンピューターが偉すぎて不愉快な時代でした(笑)。
卒論を書いたとき「コンピューターに人間がへばりついているのはおかしい。真ん中に人間があって、外側にコンピューターがあるのならいい」と考え、そんな未来の絵を描きました。そのためにはコンピューターとネットワークが繋がらなければいけないと思い、ネットワークの研究を始めたのですね。
テクノロジーというものは一貫して「人間が健全に成長して、幸せになるための環境」をつくるものとしてあるのだと信じています。そんな未来をつくっていくため、インターネットの開発に携わってきました。それはこれからもずっと変わりません。
日本では、2011年7月24日にアナログ放送が停波(東日本大震災で被災した東北3県を除く)して「地上デジタルテレビ放送(地デジ)」に完全移行した。以後、NHKのテレビ放送では時報を出さなくなった。これは暗号化された放送データが圧縮と解凍を経ることにより、遅延が生じるため。また、全国の放送局間を圧縮と解凍をしながら経由するため、地域によっても遅延時間が違ってくる。さらに家庭でも受信したテレビ機器の性能によって遅延時間が異なることから時報は廃止された。